Time in whales – ogasawara


Time in whales – ogasawara

ザトウクジラの瞳|Mysterious eyes of whales

 小笠原への初渡航は、ザトウクジラが最も多い真冬を選んだ。父島に到着した日の午後、ホエールウォッチング船に乗り込むと、一時間も経たないうちに目と鼻の先でザトウが飛んだ。距離にしてわずか十数メートル。その時に付けていたレンズは400mm、今思えばザトウの全身を捉えるには長すぎた。ファインダーを覗くと望遠レンズの先には宙を舞うザトウの瞳だけが映っていた。

 目が合った、確かに。顔の皺のようにも見えるそれが紛れもなく目だと分かったのは、動物同士特有の「目が合う」というコミュニケーションがあったからだと思う。その瞳は瞑想的で、人間の知恵ではおよそ計り知ることのできない宇宙を秘めていた。

 その夜、扇浦の砂浜に寝転び頭上に広がる天の川を見上げた。ザトウは想像を絶するほどの海の神秘だった。それからというもの毎年必ずザトウに会いに行っている。冬の海にはじまり、夏の野山に分け入り、やがて興味は自然全体に移るとオガサワラやムニンと名の付く固有種を見る度に歓喜した。まだ見ぬ生物を追い求めて聟島に船をだし、さらに小笠原諸島全域に散らばる属島をめぐった。歴史を学び、父島と母島の祭に参加し、気が付けば四季を通して小笠原で行ったことのない所がほとんどなくなっていた。

 そして小笠原諸島返還50周年を控えた2017年、あの初めてみたザトウの瞳が鮮明に蘇ってきた。今でも目を閉じれば、目が合う。あのザトウにもう一度会いに行かなければ・・・。滞在からひとつの季節が過ぎた頃、真冬では有り得ないほどの凪と快晴と透明度、すべての条件が揃う待望の日が訪れた。海域は南島北側、早朝の誰もいない湾内でザトウのブローが上がった。潜行すると間もなくして三頭のザトウが白砂を舞台に羽ばたいた。

 水中の視界は半径40ートル、それが存在している世界のすべてだった。目の前で繰り広げられる巨鯨の舞は今まで見てきたどの芸術よりも美しかった。奇跡的な海況は一週間ほど続き、毎日夢中でザトウに会いに行った。視界の先に大きな影が動けば静かに近づいて水面から見続けた。やがて目が合い警戒が解かれたのを合図にザトウの動きに合わせて体を沈めた。息が続く数十秒間が常に永遠のように感じられた。愛おしそうに寄り添う親子、歌いながら留まる雄クジラ、白砂に体を擦りつける子クジラ・・・ザトウ達は、こんなにも幸せだったのか。それは水上の躍動からは想像できない姿ばかりだった。

 果たしてこの島々にはどれほどに深い自然が広がっているのだろう。思えば小笠原は行く度に新たな一面を見せてくれた。それは毎日のように変わる海、四季に色づく山、おかえりと迎えてくれる人々、そして無限に広がる生き物たちの神秘のお陰だ。小笠原のすべてに感謝しつつ、この壮大な島々の魅力が後世にも受け継がれることを願ってやまない。
※本文は書籍『小笠原のすべて』に掲載されているエッセイを引用・加筆したものです。

著書『小笠原のすべて』より抜粋|”ザトウクジラの瞳”